核が題材となった 映画作品を 紹介

異常な事態であっても

核爆発から逃れても

田舎町へ直撃するように辺りを灰燼とかした核爆弾からの猛威に何とか逃れることが出来たジムとヒルダの二人、助かったとその時は喜びをかみしめていました。何せ直撃する前のやり取り、3分しかないという時にジムがラジオからの警告に焦るが、ヒルダは洗濯の取り込み・オーブンの消し忘れにしか興味がなかった。それはそれで怖い話ではある、だからこそ現実に周囲を薙ぎ払った猛威から逃れられた時は、ジムと共に安堵する表情がとても印象的でもある。

風が吹くとき、という物語は前半約30分程度は老夫婦の、片田舎での生活ぶりを淡々と描いているだけだった。それを長々と見ていただけに中盤以降の爆弾が墜ちてきた辺りから物語は激変します。助かったと喜ぶだけで出てきた直後にジムとヒルダはまず、部屋の中の惨状を確認して最低限片付けをしたら寝ようということだった。この時点で見ている人は思ったはず、そうではないだろうと。原作の絵本でも同じように場面が流れるように描かれているので、幼いころにと見ていた人たちは皆唖然としたはず。

一つはっきり言えるのは、ジムとヒルダは今この瞬間命があるのだから大丈夫だろうと、その一言で済ませてしまったのです。

助けが来ることを信じて

物語を通して観察してみると、二人はその後も壊れた家から離れようとせずにいつも通りの生活を過ごしていく、何一つ変わらずにだ。家は半壊したものの、人が暮らす分には何とか問題はなかったのもあったのだろう。避難所へ移動するよりも住み慣れた家にいる方がいいと、そんな風にすら思っていただろう。けれどそれにしては中盤からラストにかけてまで見ていて思ったのは、『どうしてそんなに普段通り過ごしていられるのか』という点だ。そこが筆者には奇妙だった。

爆弾、しかも核弾頭と知らずとも辺り一面がどのようになっているかを確認したなら、自宅にいるよりも周りの情報を確かめる、あるいは街へと出て状況がどうなっているかを確認するのが先決ではないか。なのにそれをしないでこの老夫婦は戦争が現実に起こっているのだと痛感させられながらも普段通りに暮らしていたのは、最初から最後まで『きっといつか誰かが助けに来てくれる』、そう信じていたからではないか。

そう考えるなら色々と辻褄が合うといえる、特にジムはお上の言うことを全て真に受けているため、疑うという選択肢すら持っていない。ヒルダにしても、こんなことになっているのだから国がきっとなんとかしてくれると、そう信じていたのかもしれません。

元々異質だった夫婦

ジムとヒルダ、この二人が前半部分でかつて子供時代に戦争という時代を経験していた。その頃に経験した悲惨さと苦しさを経験しているはずなのに、二人の考えは田舎町に住んでいるからと一言で切り捨てられない異常さに満ち溢れている。核爆弾が落とされたと情報を耳にしてもジムは核がどういうものなのかをよく理解しておらず、あまつさえ自分が設営したシェルターに避難さえしていれば問題ないと思っていたほどだ。そもそも支給されたパンフレットの中身がとんでもないデマカセが記述されている時点で、国が国民に対してとてつもない欺瞞を付き続けていたことに気づきもしないまま。

そして核爆弾というものが最も恐ろしいのは強力な熱線と爆風という爆弾としての威力もそうですが、それ以上に爆発が収まったころにその場にいる人々を蝕むことになる強力な放射能汚染だ。放射能汚染に関しても多少は記述しているものの、受け取り方によってはその場限り凌げば大丈夫とも取れるような内容になっています。それも相まってジムは内容を鵜呑みにし、よく調べることなく信じていた。下に恐ろしきは無知の非情さ、とも語れます。

パンフレットの中身について

ジムとヒルダの二人もそうですが、同時に二人を始めとした当時のイギリス政府が発行したとされる核攻撃に対する備えとしてのパンフレットの中身には呆れるしかない。突っ込みどころが多々あってどれから言えばいいかわからないが、一番驚いたのが核弾頭が直撃する際に外出していた場合での行動についてだ。

爆発直前に建物が近くにない場合は地面のくぼみに隠れて手や顔といった肌が露出している部分を隠して伏せていれば大丈夫、みたいに書かれてある。それが果たして本当かどうかなど、考えるまでもないはずだ。一度核分裂が始まって爆発が起きれば人間など簡単に消し炭へと化してしまう。その威力は人間が想像を超えるより強力な物となっているため、隠れたところで無事でいられる保証は何処にも無かった。

それでもこうしていれば大丈夫、的に記されているのが空恐ろしくなる。