核が題材となった 映画作品を 紹介

悲劇的な映画の代表作として

エンド・オブ・ザ・ワールド

核爆弾を用いた戦争、それが現状において一番最悪のシナリオと言われています。無論それだけとは言えない部分はありますが、恐ろしさに包まれているのは誰もが理解しているはずだ。現状世界では核に関する実験を行うのは禁止されており、他国が核実験をするだけでも国際社会が人道的立場を下に反対思想を展開することになる。

けれど戦争はそうした倫理・道徳といった常識的な価値観では左右されない、闘争本能ともいうべき渦の象徴だ。一度発生すれば誰かが明確に勝利を宣言するか、あるいは敗北を認めるかしなければいつまでも続けられます。では仮に、どちらも敗北を認めずに虐殺と蹂躙だけを目的に戦っていたとしたらどうなるでしょうか。その答えが核兵器であり、核爆弾の使用による、人類という存在が一人残らず死滅する結末へと繋がります。

そんな核兵器を用いた後、世界はゆっくりと放射能に汚染されていく中で僅かに生き残った人々がなんとかして生きようとする映画があります。2000年にテレビ映画としてオーストラリアで公開された『エンド・オブ・ザ・ワールド』という作品についてだ。今作を初めて見たとき、筆者はいつか起こるかもしれない核戦争の後を克明に描いていると思ったものです。

ただ一部で指摘されている放射能に対する間違った解釈などがあるものの、おそらくこうなるだろうと予想できるのではないでしょうか。

作品概要

エンド・オブ・ザ・ワールドとタイトルになっていますが、原作となったのは1957年に執筆された『渚にて』という小説が題材となっています。時代背景だけに、何かと曰くつきと連想させるのも創造できるくらいの世界観なだけに、何をどうという程のことではない。ただ一つ言えることがあるとすれば、核に対する恐怖をフィクションながら現実に起こりうるだろうと予測される事態を克明に描いているのが見て取れる分、生々しさが感じられる作品でもある。

そんな原作を元に制作されたエンド・オブ・ザ・ワールドもまた同様だが、内容に関しては原作と映画では微妙に異なっている。ここでは映画の内容に基づいてあらすじを見ていこう。

あらすじ

第二次世界大戦は終結した、しかしその後危惧されていた第三次世界大戦が勃発してしまう。今度は中国とアメリカの大国同士だった、しかし状況は違った、中国は戦争を勝利するため核爆弾の投下を行い、アメリカも反撃するように使用を決断した。これにより北半球に位置していた国々が次々と死滅していき、やがて多くの人が戦禍のまっただ中で生きながらえながらも苦しみに苛まれるという絶望のドン底に叩き落とされる。

そんな中、大戦時に潜水していた甲斐もあり核攻撃による被害を受けること無くやり過ごしたアメリカ海軍の原子力潜水艇スコーピオン号は、オーストラリアはメルボルンに寄稿した。南半球は戦争など起こっていた事実を傍も知らぬといったばかりに平穏無事に過ごしていた。しかし着実に北を汚染した放射能は南下し、いずれすべてを飲み込むと予感させられる。

まだ人として生きられるオーストラリアでの生活を続けていたスコーピオン号の艦長であるタワーズ中佐を始めとした乗組員はある時、アメリカはアラスカにあるアンカレッジからメールが届いてきたことにより、絶望的と言われた北半球に生き残りがいるという可能性と、希望が芽生えるのだった。

タワーズ中佐は部下とメルボルン在住の学者を引き連れて、希望に胸を抱いて危険な公開へと旅立っていった。しかし彼らを待っていたのは果てしない絶望の渦だった。

端的に言うと

今作は現在でも可能性として起こり得たかもしれない、第三次世界大戦をモチーフに描かれている。現在も起こるかもしれないと予測されているので必ず起こらないといった保証はないのだが、それでも現実味としてありえるだろう先の話としては架空の話と一蹴するには出来ない要素が多数詰め込まれている。ちなみに筆者は今作を始めてみたとき、これほど絶望的でかつ、訪れる死を受け入れたくても受け入れたくない、可能性があるなら少しでもそれに賭けたいという思いを切実に感じ取る話だ。

エンディングが夢も希望もない作品など多く存在していますが、このエンド・オブ・ザ・ワールドはタイトルからして既に誰も生き残れないことを示唆しているような作品はいまだかつて見たことがないと理解している。退廃していく世界で失われていく人としての理性、その果てに待っているのは安らかな死か、あるいは否定したくても逃れられない苦しい死か。結局はどちらか片方しか選択できないのだ。命短きものであろうとなかろうと、それが子供であっても選ばなければならないのだから、見ていて心が締め付けられる。